あおぞら銀河鉄道―プラレールの架空鉄道―
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▲創設当初に在籍した電車(ただし、車両は2代目)

説明文
○発足の経歴
 元は、地元有志と行政が話し合いの末に起業した『高水高原鉄道』が、路線を建設、各地から車両を買い集めて運行を開始したのが始まりである。当時の営業区間は、現在の銀河線(高水町〜長園港)の区間であり、高水町駅から広がる『高水高原』は観光地としても栄えた。そのために観光路線へのシフトチェンジも視野に検討されていたことから『あおぞら銀河線』という俗称を与えられていた。更には新しい港(長園新港)が開港する話もあったことから、高石駅から分岐して新港までをつなぐ路線(現在の臨海線)を建設するなど、鉄道経営は順調そのものであった。当時は旅客7、貨物3の割合で列車を運行している、半ば旅客営業が主の鉄道だったのである。

○地元鉄鋼会社の鉄道に…
 起業から3年後、観光客輸送が減り始め、鉄道経営が徐々に下降し始めていた頃、不穏な動きが現実となった。行政が持っていた鉄道会社の株式を地元鉄鋼会社『高石鉄鋼』が買収してしまったのである。こうして高石鉄鋼の傘下となってしまい、社名を『高石鉄道』に改めることとなってしまった。同時に自社貨物列車を主としたダイヤへ組みなおさせ、旅客列車の運転を減らしたことから、地元の住民に見捨てられ始めた。利用客数の少ない時間帯の列車(特急列車も問わず)を駅で待避させ、貨物列車を優先的に走らせるといった事態まで起こしていたのである。

『乗客がいないんだったら、乗客が乗る列車を走らせる必要は無い』
 旅客の減少は高石鉄鋼の原料輸送など、貨物列車に力をさらに入れる滑車となり、買収当初にあらかた削り、残されていた少ない旅客列車をさらに削る。ついに高石鉄道は信頼を失い、旅客用車両は従業員輸送車へと用途を変えるか廃車され、旅客輸送は廃止されてしまった。すでに鉄道が高石鉄鋼傘下に入った際、そこで見区切った地元住民は、並行して路線バスを開設するなど、代替交通手段を仕立るなどしたのだ。

『廃止してしまえ』
 その後、親会社であった高石鉄鋼の経営が行き詰まり、路線赤字が進行していた高石鉄道を廃止し、赤字現況を減らす対策を検討していた。しかし、これよりも前に高石鉄鋼はこの会社を名義に銀行などから融資を受けて、それを着服していたことから、その隠蔽の意味合いもあるらしい。買収される前は地元住民から愛された鉄道も、地元の企業の独占経営によって信頼されなくなり、誰からも愛されない鉄道へと変わっていった。買収から5年後、ついに高石鉄鋼は子会社であった高石鉄道を廃止してしまう。誰からも期待のまなざしで迎え入れられたこの鉄道は、最後には誰からも見捨てられ、誰に見送られることも無く、ひっそりと闇の中へとその姿を消した。

『高石に取られた鉄道を、再び我々の手に戻すぞ』
 『地元鉄鋼会社に奪われ、そして消えた鉄道を取り戻すぞ』と、鉄道廃止からしばらく経ち、地元有志は再び立ち上がった。
 地元有志が集まって、新たに『あおぞら銀河鉄道復興委員会』というものを設立。これは、高水高原鉄道であった際に名付けられた俗称『あおぞら銀河線』が由来とされている。委員会設立後、旧高石鉄道が会社解散後に親会社であった高石鉄鋼が管理(実質放置状態)を行っていた鉄道に関する施設全ての無償譲渡を受けた。その後は沿線住民が自主的に路線復旧工事へ参加したことに加え、地元行政などが後押しした。委員会は鉄道運行開始に向けた資金集めなどに奔走し、運行再開に向けた準備を進めていくことになる。準備段階の有志団体であった『あおぞら銀河鉄道復興委員会』は『あおぞら銀河鉄道財団』へと組織変更。引き続き、路線の完全復旧と、車両の準備を行う。
 路線の完全な復旧と、営業用車両の準備、乗務員研修など、鉄道運行にかかる全てのことを終えたときには、有志団体発足から3年の月日が流れていた。
 完全に準備が整った2ヶ月後、鉄道の運行を開始することになった。

『再び地元に愛される鉄道に』
 その後、鉄道の運行再開に関する準備を目的に設立された有志団体『あおぞら銀河鉄道財団』は、鉄道の全面的な運行管理を行う会社とすることとして鉄道事業者に組織変更し、現在の『あおぞら銀河鉄道』となって、現在に至っている。その後は同じように経営に行き詰まっていた鉄道(水森鉄道,現在のあおぞら銀河鉄道水森線)を買収した上で路線を復旧して運行を継続したり、建設途中で放置されていた高速鉄道線(現在の高速特急線)を引き継いで建設し、開業させるなど、営業規模を徐々に拡大している。

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